電報ですよ〜!!


「ダンシウマル」


私が覚えている限り、
かばんを提げた電報局の職員さんが我が家に電報の配達をしてくれたのは、
昭和39年、親戚の息子の出産報告のこの電報が最後だったように思うのですが

慶弔電報や 入学祝の電報以外に今も電報が使用されることがあるのかしらと
思っていたら、
何と 不正な 「債権請求電報」 なるものも発生しているのだそうです。
                                     みなさまご用心遊ばせ

記憶はどんどん風化していくものだと
つくづく感じます。

かすかな かすかな記憶に
我が家の玄関にこんな形の電話機が
あったような気がするのですが、
幻かな・・・

いつから黒電話になり
黒ダイヤル電話になったのか

いったい昭和何年に
住所表示が変わったのか
役所にでも確認しない限り
誰も記憶していないのです。

私はまだ「電信町」にこだわって 調べているのですが、なかなか・・・


市立図書館で見つけた明治26年の熊本城周辺の古地図の一部です。

これでははっきりと見えませんが、「元標」や「顕彰碑」「古城堀端町」や「新壱丁目」
「蔚山町」 「一新校」の文字が読み取れます。
友人のお母さんに聞いた「忘吾會舎」も載っています。
「我が家の敷地は以前は公会堂のような《忘吾會舎》だった」とお聞きしていたのです。
「吾を忘れて楽しむ」・・・吉本演芸場のようなものだったのでしょうか。

しかしこの地図にも、一番知りたい肝心の「電信局」や「電信町」の表示がありません。
いったい いつまで この地に「電信局」があったのか・・・
本当に「電信町」という住所表記があったのか・・・
古老に聞いて廻っても、まちまちの答えが返ってくるのです。

明治9年 小勝が電報を打った時、
「ダンナハイケナイワタシハテキズ」の電報料金が幾らくらいだったのか・・・

今でも結構高い電報代。文明開化のはじまったばかりのその当時
きっと一文字幾らと目の玉の飛び出るように高かったに違いない。
鎮台司令長官のお妾さんだった小勝なればこそ 電報も打てたに違いない。
私の勝手な思い込みで、電報局 郵政局と電話をかけ問い合わせをした挙句

私用の調査を快く承諾し資料を送付して下さったのは、
NTT西日本熊本支店総務部の方です。


送ってくださった資料の日付は
明治4年4月15日。

「東京ー長崎間音信表の公布」です。

東京から、和文20字、欧文20語を
T音信とし、

  和文  43銭
  欧文 205銭と記されています。

経過局料 和文T音信毎に7銭
配達料 5町迄毎に2銭
と書いてありますので
熊本〜東京日本橋まで幾らかかった
やら

明治初期の1銭が 現在の貨幣価値に換算すると幾らになるのか気に掛かる
ところだけれど、調べているうちにもっと気に掛かることを見つけました。

何と 何と種田司令長官には少なくとももうひとりのお妾さんがいたのです。

日本橋の芸妓であった小勝は、
種田に大金でもって身請けされ熊本へ連れてこられたのですが、
種田は妾宅の小女にも手をつけ、親元に当時10円の金を払って引き取り 
妾としていたのです。  (なんとけしからん!!)

神風連に踏み込まれた時、小勝は手傷を負いながらも難を逃れたけれど、
種田の横に寝ていた小女は巻き添えを食い斬られ死んだのだとか。

熊本城の西  藤崎台に
西南戦争を記念して 昭和13年に 
「丁丑戦跡記念碑」が建てられ

鎮台司令長官谷干城の夫人らと共
熊本城内に籠城して戦った女性達の
名前が記されていたそうです。

その中に「種田政明少将侍女かつこ」
の名前があったとか。

「侍女かつこ」とはもちろん小勝です


「丁丑戦跡記念碑」は 八景水谷の
陸上自衛隊の敷地の中に移設され
一般には見ることが出来ないそうです。
写真は二の丸公園内の
「籠城将校家族避難の碑」です。

明治10年 熊本の2月の厳しい寒さの中、薬研堀の中で弾丸の飛来を避けながら
負傷者の傷の手当てをしていた幕舎の中に小勝がいた事、
鎮台兵から拷問を受けた小勝が無事であった事、
鎮台将校の家族としての扱いを受けていた事に、
私はほっと安堵の気持ちを持ちました。

明治9年、神風連の乱の中で、電信局は襲撃を受けます。
形勢不利と見た敬神党の志士達は、
鎮台と中央政府との連絡を絶つため電話線を切断し、電信機器を破壊しました。
小勝の発信した電報は間一髪のところで東京の親元へ届いたのです。

小勝が打った電報の料金は、私には計算できません。
電文以外にも 宛先 送信元も文字数に含まれ、
何ヶ所かの経過局料に、配達料もかかったのでは、皆目計算できませんもの。
本文のT音信だけでも 43銭!!

明治9年頃の米価は、10キロあたり33銭
県庁の一番下の職員の給金が 12円。
と言うことは、現在の20000分の一くらいでしょうか。
やっぱり種田鎮台司令長官のお給金は大きかったのでしょう。妾がふたり・・・ですもの

よく「数奇な運命を辿った」と言う言い方をしますが、
芸妓 小勝さんも、種田鎮台司令長官のお妾さんになったばっかりに
はるばる熊本まで連れてこられ、
挙句に神風連の乱 西南戦争とふたつの大きな内乱のまん真ん中に身を投じることに
なるなんて・・・
西南戦争終結の後無事に東京 日本橋に帰れたのでしょうか?
まさかその後 日清 日露戦争に巻き込まれた・・・なんてドラマはないのでしょうね。


                                           2006・3・9





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